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飛鳥寺(あすかでら)に行ってみた(後編) [旅情報]

奈良県明日香村の飛鳥寺(あすかでら)に行ってきた。
その続編。

2014年5月3日午後1時、私と家内は奈良県明日香村にある
飛鳥寺にいた。飛鳥寺に着くやいなや、家内は、
「あら。あたし、ここに来たことあるわ。」
とか言う。
「え、行ったことないって言ってたじゃないか。」
「小学校のとき、遠足で来たわ。これってここにあったのね。」

いきなり気勢をそがれるが、とりあえず駐車場代500円と、
2人ぶんの拝観料700円(大人1人 350円)を払って、
なかへ入る。
入ってすぐに飛鳥大仏(釈迦如来像)があった。家内は、
「あー、これ見たことあるある。
へー、これって日本で一番古い
仏像だったんだ。」

とか言う。

以後、家内は自由行動にして、私はなおも調査を続けた。
住職さんがやってきて、飛鳥寺の解説を始めた。
記憶しているもののみ、いくつかポイントをあげると、


1.飛鳥寺は596年、蘇我馬子(そがのうまこ)により
 建立された日本最初の本格的な仏教寺院である。
2.出来た当初は、東西約200メートル、
 南北約300メートルの広大な寺院であった。
3.現在は焼失してしまったが、五重塔もあった。
4.本尊である釈迦如来像は、推古天皇の命により、
 鞍作止利(くらつくりのとり)につくらせたものである。
5.釈迦如来像は銅で出来ており、出来たばかりのときは、
 金で鍍金(メッキ)が施されていた。
6.釈迦如来像の表情はかすかに微笑んでいるが、
 これはアルカイック・スマイルといわれるもので
 古代ギリシア文明の影響を受けているものとみられる。
7.釈迦如来像は、石の台座から動かされた形跡はなく、
 飛鳥時代から、ずっと同じ位置に立っていると推定される。
8.飛鳥寺が建立された当初は、本堂をはじめ、建物は
 すべて瓦ぶきの屋根であった。飛鳥寺は日本で最初に
 つくられた総瓦ぶきの建造物である。

alcaic.jpg
アルカイック・スマイル



asuka.jpg
飛鳥寺の解説をする住職

かなり長い説明であったが、住職は一度もセリフをかむ
ことなく、流暢に説明した。1日に何回も同じ説明を
しているのだろうな。



ひととおり見たあと、私たちは境内の外に出てみた。
新緑と5月の風が心地いい。田んぼには、レンゲ草が
咲いていた。いま、私たちが見ている風景は、おそらく、
飛鳥時代とそんなに変わっていないにちがいない。
前編で述べた私の疑問であるが、明日香の風景を
見ているうちに、だんだんと答えが見えてきた。

まずは、当時の日本(倭国)と隋の関係
であるが、現在の日本と中国の関係にそっくりである。
けれども、その緊迫度は、いまとはまるで違っていた
のではないだろうか。
蘇我馬子は、大陸および朝鮮半島に関する情報を、
驚くほど正確に把握していた。が、一般の民衆にとっては、
やはり海のむこうのお話。日本人独特の
「ま、なんとかなるだろう。」
という根拠のない安心感
蔓延していたのではないか。

それに当時はいまほど交通・物流が発達していないから、
中国本土あるいは朝鮮半島から、兵と武器を海上輸送し、
飛鳥京まで攻め上がるなんていうのは、たしかに現実的な
話ではなかった。

むしろ、当時の朝廷にとって怖かったのは、隋と九州の
豪族とが手を結び、飛鳥京まで攻め上がってくること
であっただろう。そのため、蘇我馬子は天皇を中心とする
中央集権国家をつくり、「日本」というひとつのまとまり
となることを急いだのであろう。
仏教は、そのためのキーワードであった。


遣隋使については、スパイであったのではなかろうか。
当時の先進国である中国の制度や技術を勉強することは、
もちろん、それなりに意味があった。
670年ごろには、遣隋使、遣唐使が得た知見をもとに、
藤原京の建設がはじまる。女帝持統天皇(じとうてんのう)
の命のもと、唐の都、長安をモデルにした巨大都市であった。
しかしながら、それは100年も後のことである。

この時代において、倭国が遣隋使を派遣した主な目的は、
中国の冊封体制(さくほうたいせい)に組み入れられるポーズ
をとりつつ、隋の動向をさぐることであったもの
と思われる。
冊封体制とは、周辺諸国の各地域を支配する君主が
中国皇帝に「朝貢」を行い、これに中国側が返礼品や
位階を授けることで、上下関係を維持するという
外交政策であった。

要するに、中国にとっては、周辺の国はみんな“蛮族”で
あるから、対等な外交など、ハナから
する気はなかった。

これは、現在にいたっても、まったく変わっていない。

一方で、周辺諸国の君主にとっては、朝貢をすることは
損ではなかった。上下関係とはいっても、それは非常に
ゆるやかなもので、朝貢さえしておけば、中国と平和的な
関係を維持することができるのだから。

中国の歴代王朝にとっては、周辺国のことなど、
あまり関心はなかった。というのは、中国の歴史というのは、
約4,000年前の夏王朝から現在にいたるまで、
内乱と支配者交代の歴史である。だから、次の支配者になる
可能性のある国内の有力者の動向には非常に神経質であったが
東の果て、海のむこうにある蛮族の島国のことなど、
はっきりいって、どうでもよかった

聖徳太子は、帰国した遣隋使からの報告を聞いて、
そのあたりの雰囲気を敏感に感じとり、冊封体制から
離脱しようとした。しかしながら、これは、常に中国に怯える
朝鮮半島の国々にとっては、とんでもないことであった。
以降、朝鮮半島の人々にとって、日本とは、
とんでもないことをする、
わけのわからない人々

の住む国として、ときに恐れの、ときに蔑みの対象となり、
今日にいたっているのである。


最後に、それまで神道もしくは原始的な太陽神信仰が
主流であった日本人が、なぜ、仏教を受け入れたのか。
私たちの世代は、学校で「仏教は支配者にとって都合のよい
宗教だった」と習ったのだが、どうも違うような気がする。
それならば、神道の教えを支配者の都合のよいように
書き換えれば、それですむからである。

仏教をはじめて知ったときの、日本人の反応は、
「かっこいい!」
という感じだったのではないか。
それまでの神道はもちろん、太陽神信仰でも、
偶像崇拝というスタイルはなかったから、
金色に輝く仏像を拝むというのは、当時の日本人には、
非常に新鮮に感じられたと思われるのだ。
日本人はいつの時代でも、新しもの好きである。

そして、「どうせなら、でっかい仏像を
つくってやろうぜ。」
ということで
つくられたのが、飛鳥大仏であろう。
砂や粘土で型をつくり、溶かした銅を流し込む。
さらには、金メッキを施すという、当時としては
最先端の技術であった。つくっている当時の日本人は
とても楽しんでいたにちがいない。

当時の日本は、男が女の家に通う女系社会であった。
子どもの養育は女性のしごとであり、男は農耕などでの
力仕事を担当。稲刈りが終わったあと、次の田植えが
始まるまでは、なーんにもやることがなかった。
女性の家に行って子づくりに協力するのも仕事のうちだけど、
まあ、そんなもん、すぐに飽きるし。www

ちなみに、男女差別というのは、男性が外に働きに出て、
女性が家庭を守るという産業革命以降の西洋の社会に
おいて始まったものであり、男も女も重要な働き手であった
古代から江戸時代までの日本では、ありえない話である。
事実、推古天皇以降、何人もの女性天皇が誕生している
のである。

ま、ともかく、稲刈りが終わってヒマな男たちは、
渡来人である鞍作止利のもとで、よく働いた。
当時の平均寿命は、せいぜい30才程度と推定される。
にもかかわらず、当時の日本人は、よく笑ったという。
現代の日本人のように無表情で、下を向きながら
満員電車に乗りこみ、スマホを操作したりしない。
生きているのが楽しい。そんな時代だったようだ。



ということで、今回の記事のまとめであるが、
奈良県明日香村の飛鳥寺は、飛鳥時代の日本を
しのばせるいいところである。たまには古代に
タイムスリップして、私たち日本人がどこから来たのか、
ということに思いをはせるのも、いいのでは
ないだろうか。



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