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岸里玉出駅の謎 その3 [旅情報]

南海電鉄の岸里玉出(きしのさとたまで)駅のこと。
前回からのつづきである。


kounaizu.gif
現在の岸里玉出駅の構造  出所:南海電鉄


高野線の始発駅が汐見橋(しおみばし)という駅であり、
岸里玉出で南海本線と接続していることは、
2つ前の記事に書いたとおりである。
しかしながら、現在の汐見橋行きの電車は、
南海本線のさらに外側にプラットフォームがあり、
完全に支線の扱いである。(上の図参照)
いったい、いつのまにこんなことになってしまったのか。



汐見橋行きのプラットフォームで角ズームの発車を
見送ったあと、私は長い通路をわたって、
高野線のプラットフォームに行ってみた。
エスカレータを上がったが、まったく見覚えがない。
おかしい。
まったく見覚えのない、新しい駅になっている。

なおも歩くと、プラットフォームの端から先が閉鎖
されていて、そこには、古いプラットフォームが残っていた。
それを見た瞬間、私は40年前の記憶がよみがえった。
そう。ここに高野線の旧岸ノ里駅があったのだ。
たしかに見覚えがある。


kishi4.jpg
高野線旧岸ノ里駅のプラットフォーム
※現在は閉鎖されている


そして、現在の新しいプラットフォームがあるあたりに、
汐見橋に行く電車専用のプラットフォームがあって、
そのあいだは、長い連絡用通路でつながっていたと思うのだが。
...あった。
プラットフォームの下に、連絡通路の痕跡がある。

kishi5.jpg
現在のプラットフォームの下に残された連絡通路の痕跡

kishi09.jpg
下り線の連絡通路の痕跡(外側からみたところ)
出所:Googleマップ


謎のひとつはとけた。
かつての岸ノ里駅は、このような構造になっていたはずである。


岸ノ里.gif
かつての岸ノ里駅の構造   ※takの記憶、その他、ネット上の資料による


こまかいことはわからないのだが、まずは、当時の
南海本線は高架ではなかった。これは確実である。
高石から南海本線に乗って難波まで行くとき、
私は上の図のいちばん左側、すなわち、本線の通過線を
走っていたのであるが、粉浜駅、玉出駅、岸ノ里駅は
いずれも地上にあった。

そして、南海本線と高野線は岸ノ里駅で立体交差していた。
高野線は当時から高架であり、南海本線の上をまたぐ
かたちで、汐見橋方面にいく線路が走っていた。
そして、その高架線の上に、汐見橋行きの電車の
プラットフォームがあったのである。

つまり、当時の高野線の汐見橋と堺東、橋本方面に行く
線路は分断されていなかった。私の子どもの頃には
汐見橋から住吉東行きの電車が走っていたと記憶している。

一方で、高野線のプラットフォームは、汐見橋行きの
プラットフォームから、離れたところにあった。
当時から高野線の電車は、難波から堺東、橋本方面に
直通運転をしており、上の図でいうと「連絡線」と
書いた線がメインルートであったから。
この連絡線は複線であったから、かなり複雑な配線
であったと思われる。
※すみません。このへんは記憶が定かではないです。

当時の岸ノ里駅で高野線から南海本線に乗り換えるには、
とても長い通路を歩かなければいけない。けれども、まったく
差し支えなかった。高野線から南海本線、あるいは
その逆の乗り換えは、新今宮で行うのが普通だったから。

私の子どもの頃、天下茶屋(てんがちゃや)は小さな駅であり、
急行は停まらなかった。天下茶屋に急行が停まるように
なったのは、地下鉄堺筋線がのびてきて、天下茶屋が
乗り換えターミナルになってからである。

ということで、当時はみんな新今宮で乗り換えていたのだが、
だからといって、岸ノ里~新今宮間の往復乗車券を
別途、購入しなければならない、ということはなかった。
このあたりは、運賃特例だったのか、あるいは単に黙認
されていただけなのか。いまとなっては、はっきりしない。



ということで、今回の記事のまとめであるが、
南海電鉄の岸里玉出駅は、大きな変遷をくりかえして、
現在の構造になっており、いまも、その痕跡をみる
ことができる。
その例として、かつての汐見橋行きのプラットフォーム
と高野線のプラットフォームをつなぐ連絡通路の跡が
高野線の上り線のプラットフォームの下にあるのと、
かつての高野線岸ノ里駅のプラットフォームを
南がわにみることができる。
もし、ご興味を持たれたら、実際に行かれて確かめて
みることをおすすめするものである。


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